また、この時期がやってきた。
中里 義人(なかざと よしと)は、図書室(別称:自習室)の窓の外を眺めて、ため息をついた。
12月に入り、都立中野北高校の3年生は自由登校になっていた。名目上、授業はあるが、参加しなくても欠席扱いにはならない。高校にではなく、予備校に登校する生徒は、その日の朝に担任に連絡しなければならない煩わしさはあるが、自分の将来がかかっている大切な大学受験を目前に控え、その煩わしさに文句を言う生徒はほとんどいない。
義人も12月に入ってからは、高校よりも予備校に登校することが多くなっていた。
珍しく高校に登校する気になったのは、たまには一緒に勉強しようと、健吾に誘われたのがキッカケだったが、それ以上に、今日だけは予備校に行く気分ではなかった。
今の義人にとって、12月25日ほど特別な日はない。こんな日に、シビアに受験戦争の現実を叩き込んでくる予備校に行けるほど、義人の神経は強くなかった。
司書控え室からではない図書室の外の風景は、少し角度が違うだけなのに、見慣れない錯覚を持ってしまう。
年々、温暖化が騒がれているが、この日は木枯らしが吹きすさぶ一日で、寒がりの義人にとっては、コートとマフラー、その上、手袋を着ても外に出たくないほど冷え切っていた。
寒い寒いと思うからか、窓の外に見える校庭が物寂しい茶色一色に見えてしまう。
それとも、校庭を物寂しいと感じるのは、今日が12月25日だからだろうか…。
「…義人、義人。」
向かい側に座っている野村 健吾(のむら けんご)が、窓の外を眺めたまま動かない義人の手の甲を、シャーペンの先でつつく。
「…え?」
手にくすぐったい感触を覚え、義人は友人を振り返る。
「え? じゃないよ。鏡みたいな受け答えすんなよ。また、ぼーっとしてる。」
振り返った義人を、健吾は小声で指摘する。
「あ…、ごめん。ありがとう。」
指摘され、慌てて義人は自分が広げたままの問題集とノートに向き直った。
健吾は、そんな義人らしくない姿に、こっそりとため息をつく。
3年になってから、義人のボーっとした姿を、頻繁に見るようになった。それは、健吾だけではなく、この場にはいないもう一人の友達・浄岡
鏡(じょうおか きょう)も気づいている。
その兆候のようなものは、高校2年の秋口あたりからあったが、ここ数ヶ月は特に酷くなっていた。
義人本人も、そこは自覚があるらしく、我に返った瞬間には、必ず「ごめん」と謝る。
だが、絶対にボーっとなる原因を、健吾にも鏡にも告げない。
どれだけ聞き出そうとしても、絶対にはぐらかす。
基本的に、義人は頑張りすぎなんだよな…。
勉強でも何にでも、義人は一人で解決しようとする癖がある。高校3年間の付き合いで、なんとなく気づいていた健吾だが、それが確信につながったのは、去年のクリスマス後だった。
義人が倒れたと鏡から聞かされて、健吾がどれだけ衝撃を受けたことか。健康優良児と言われて十数年、貧血なんて起こしたことがなかった健吾が、鏡の電話で、血の気が引きすぎて、大げさでなく立っていられなくなった程だった。
今、思い起こせば、義人が我を忘れてボーっとするのが酷くなったのは、あの騒動の後からだ。
体は復調しても、心はそうじゃないのかもしれない。一年経った近頃、健吾はそう考えるようになっていた。
特に今日は、朝から図書室に陣取っているが、シャーペンで手の甲をつつくのは、10じゃきかないほどだ。
「なあ、義人。」
「なに?」
同じように自習をしている同級生たちを気にして、健吾は小声で話しかける。問題集に集中し始めていた義人は、顔も上げないまま返事をした。
「帰ったほうが、いいんじゃないのか?」
「どうして?」
「今日のお前、ひどいよ。」
「………そんなに、ひどいかい?」
「ひどい。」
「………。」
健吾に指摘され、義人はようやく問題集から顔を上げた。目の前には、泣き出しそうな顔をした友人がいる。
誘っておいてと、文句を言う気も失せさせる顔に、義人は苦笑いを浮かべる。
「…3時までは学校の中にいないと駄目じゃないか。」
「じゃあ、保健室行って休んでこいよ。」
「別に、体が辛いわけじゃない。」
「でも、心は違うんだろ?」
「……。」
鋭い指摘に、義人は珍しく返す言葉を見失った。
お節介の権化とさえ言われている健吾の観察力に、義人は他人事のように賛辞を送りたい気分になる。
確かに、心の問題であることには変わりない。でも、それは辛いというよりも切ない。今日は特に、世間がクリスマスと騒いでいる日だけど、義人にとってはそれ以上に特別な日だから、特に…。
「疲れてるんだよ。大学受かりたい気持ちは分るけど、そんなにがむしゃらになって、それで去年みたいに倒れたら元も子もないじゃん。」
義人の不調が、受験勉強疲れから来ていると思い込んでくれていることに、義人は安心のため息をつく。
違うと打ち明けられれば、どれだけ楽か。義人は最近、ふとした瞬間に考えることがある。待つことが、これだけ辛くて切なくて、胸を掻き毟りたくなるような苛立ちを感じるなんて、一年前は想像すらできなかった。
必死になって過去問や予想問題集に挑んでいる時が、実は現実逃避なのだと、どんなに辛くても苦しくても、目の前の友人には告白できない。
たとえ、自分の奇行が、友人2人にどれだけ心配をかけていても…。
「ありがとう、野村。でも、大丈夫だから。」
特に、今日は特別過ぎるだけだから。だから、今日一日は、何も言わないで。
心配してくれる友人に心の底から感謝しつつも、うるさく問い詰められないためにと警戒して、突き放したような冷たい声を出した。
健吾の顔が一段と歪むのを気にしながら、でも、自分の声を消し去ることもできず、義人はもう一度、問題集に視線を落とした。
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また、この時期がやってきてしまった。
何かと忙しい年の暮れ。
世間がクリスマスと浮かれている中、山倉法律事務所所長・山倉 勝久(やまくら かつひさ)も世間の風に煽られる……わけではなかった。
だからと言って、全く縁がないわけでもない。
弁護士としての仕事も事務所の経理も、処理すればするほど何故か増えていく中で、勝久の頭の中をチラチラと点滅する「クリスマス」の5文字。全く終わらない仕事に没頭することで、その点滅を消してしまいたい程には、勝久はクリスマスを意識していた。
終わらない帳簿付けと裁判資料の準備、迫る客との約束の時間……。
目が回りそうなほど、いやむしろ過労死してしまいそうな忙しさが、今日の勝久には救いだった。
「……所長。」
「…なんだ。」
だからこそ、いつもならトラブルを予感させる、部下の金井 忠彦(かない ただひこ)の弱々しい声も、今日の勝久にとっては大歓迎だった。
返事をしたのに、なかなか続きを言わない部下の異変に気付き、勝久はようやくパソコンのディスプレイから視線を外した。
勝久が見たのは、目に涙を溜めた30男の顔。
「…………どうした?」
触れれば決壊しそうなその半泣きの顔に驚き、声を掛けるのに少々まごつく。
確かに気が弱いところがあるし、お人好しとしかいえない性格の金井だが、みっともなく泣き顔を晒すのは、せいぜい、恋人にこっぴどく振られたときぐらいだろう。
だからこそ、見慣れない金井の表情に、勝久は仕事の手を止めて、まじまじと見つめてしまった。
「…いい加減にしてください。」
「なにがだ?」
「ちょっとは休憩してください。」
「そんな暇があるか。」
「じゃあ、暇を作ってください。」
「なに寝ぼけてるんだ、お前は。」
「はぐらかさないでください。」
「なんなんだ。今日はやけに絡むな。」
珍しく食い下がる金井に、勝久も珍しく折れた。いつもなら、完膚なきまでに言い負かしてやるのだが(ストレス解消も兼ねて)、今日ばかりは時間もなければ、余計な出来事に体力を費やす余裕もない。さっさと話を終わらせて仕事を再開しなければ、客との約束の時間までに、今日のノルマは達成できないだろう。そう計算して、勝久は金井に折れた。
「もうすぐ2時ですよ。いい加減、少しでもいいから何か食べてください。今日は飲み物だって、一口も飲んでないじゃないですか。」
「もうそんな時間か…。しまった。依頼人との約束、3時だ。」
時間の感覚すら失っていた勝久は、慌てて、パソコンの電源を落とし、煩雑とした机から必要な資料を選び出し、目を通し始める。
3時から会う客は、ある企業の社長で、売掛金が回収できない取引先とトラブルになりかかっているという。
幸いにも、その会社の事務所は都心にあり、地下鉄を使えば10分で行ける距離だった。今から資料を見直しておけば、焦って客を不安がらせることはないだろう。
時間の計算をしながら、資料を捲っていく。
もうすでに、頭の中は次の仕事で一杯になった勝久に、金井はもう一度声を掛けるなどと言う不毛なことはしなかった。
代わりに―――。
ドンッ!という大きな音とともに、勝久の机の上(正確に言えば書類の上)に、金井はコンビニの袋を置いた。
ひじを突いて書類を読んでいた勝久は、音と少しの揺れに驚いて、書類から目を上げる。
「なんだ。」
「これ、食ってください! じゃないと、ボク、もう心配で心配で!!」
「なに言ってるんだ、お前は?」
書類を下敷きにしているコンビニの袋を覗き込むと、中にはサンドウィッチとおにぎり、栄養補助食品に栄養ドリンクと、手軽に食べれるモノばかりが入っていた。
「所長……、自覚ないんですか? ここ一年くらい、所長、ちょっと様子が変でしたけど、ここ1週間ぐらい、メチャクチャおかしいですよ。ほうっておけば、いつまでも仕事をしてるし、する必要がないのに事務所に泊り込んだり、挙句の果てには、食事を忘れるなんて……。何かあったんですか?
所長が仕事人間なのは知ってますけど、この一週間は異常です。」
温厚な金井に「異常」とまで言われて、口の悪さで有名な勝久も、さすがにぐうの音も出なかった。
「…わかった。」
突けば泣き出すこと受け合いの金井に反撃もせずに、勝久は書類を置いて、コンビニの袋を弄り始めた。
一番食べやすそうなハムサンドと取り出して、封を開ける。
「それ、全部食べてくださいよ。」
理由を答えない勝久を追求するのを諦めたのか、金井はその一言だけを残して、自分の席に戻った。
ハムサンドに噛り付きながら、勝久は置いた書類に手を伸ばそうとする。
「所長。食べてる時ぐらい、仕事を忘れてください。」
しっかりと見張っていた金井から、鋭い「お叱り」が飛んでくる。
いつもと立場がひっくり返った状態に、勝久は伸ばした手を止めて、金井を睨みつける。
「お前は俺の嫁か。」
「気持ち悪いこと言わないでください!」
仕返しとばかりにからかった勝久の言葉に、金井は背筋を震わせて気持ち悪がった。
そうだよな、普通は「気持ち悪い」んだよな…。
今日ばかりは立場が強い金井に素直に従い、勝久は食べることに集中する。すると、仕事に集中していた脳が、別の思考へとすぐに移っていく。
別のことを考えるのが嫌で、自分を虐めるみたいに仕事をしていたのに、仕事の手を休めた途端に、思考は目を逸らしていたものに突き進んでいく。
気持ち悪がっている金井を見ながら、勝久はやはり今日という日を意識していた。
あれから……一年か。
去年のクリスマスに、勝久が義人に告白されてから、今日でちょうど一年。
あの時に、病院のベッドの上で意識を取り戻した義人から「好きなんです」と告白された時に、金井のように「気持ち悪い」と言えればどんなに楽だったか。
「気持ち悪い」どころか、パニックを起こして「時間をくれ」としか言えなかった自分が情けないのかどうか、未だに判断できない。
その「時間をくれ」が、勝久がずるずると引き延ばしたせいでもう一年にもなっていた。
義人は、あれ以降、顔を合わせても何も言わない。
苦しそうな目で見つめてくることはあるが、口には出さない。
口には出さないのを良いことに、勝久は考えることを先延ばしにしてきた。
先延ばしにしているのはいいが、いくら時間が経っても、勝久のパニック症は治らず、義人の事を考えていると、自分が何をしているか自覚ができないことが多い。
そして、今年のクリスマスが近づくにつれ、パニックはひどくなり、クリスマスを意識せざるを得なくなってきた。だから、意識する自分が嫌で仕事に没頭し、金井に「異常」と言われるほどの仕事魔になってしまっていた。
今からでも「気持ち悪い」って言えれば……。
どんなに楽かと考えて、自分が義人を否定する言葉を言う気がないのだと、はたと気付く。
だが、義人の気持ちを受け入れる言葉も、今の勝久には浮かんでこない。
じゃあ、自分はどうしたいのか、それも具体的には浮かんでこない。
「………くそ〜…。」
食べかけのハムサンド片手に、勝久は一言うめいて頭を抱え込む。
たかが18歳の子どもに振り回され、振り回されている自分を笑い飛ばすほどの余裕もない自分が、まるで、まるで―――。
「所長。」
「なんだ!」
金井の声に思考をかき消されて、勝久は苛立ちにまかせて声を荒げる。
八つ当たりなど、大人気ないことぐらい分かっている。だが、思考の渦の中に入り込む原因を作ったのは金井なのだと考えると、この八つ当たりは少しだけ正当化できそうな気がしてくる。
「もう2時半ですけど……。」
機嫌の悪い勝久に、金井は遠慮がちに時間を指し示す。
事務所内、唯一の壁掛け時計の分針は、限りなく「6」に近い場所を指していた。
「しまっ……!」
「た」まで言う時間も惜しみ、慌てて食べかけのハムサンドを口の中に放り込む。机の上に放り出した資料と書類、システム手帳を鞄の中に押し込めて、机から立ち上がる。
掛けていたコートを取り、ふと気付いて、勝久はスーツの内ポケットから財布を取り出した。
「金井、飯代。」
財布から1000円札を2枚取り出し、金井の脇を通り過ぎざまに机の上に押し付ける。手を付けていないとは言え、さすがに食事代を払わないわけにはいかない。
「いいですよ。」
「うるさい。言い合ってる暇はない。それ、置いといてくれ。帰ってきたら、食べる。」
「行ってくる」と一言残して、勝久は事務所を飛び出した。
その後姿を見送って、金井は深く深くため息を吐く。
「外回りに行く時は、いつもどおりなんだけどなぁ…。」
押し付けられた2000円を片手に、金井はもう一度、席から立ち上がる。サンドウィッチ・おにぎり・栄養補助食品・栄養ドリンク1つずつの代金にしては、2000円は多すぎる。1000円札2枚のうち1枚を、書類が山済みにされている勝久の机の上に置く。そして、残りの1枚は、ありがたく自分のスラックスのポケットにねじ込む。
そのついでに、食べ散らかして行った勝久の食料を、丁寧に包みなおし、もう一度、給湯室に置いてある冷蔵庫の中に入れておく。
30分経っても、ハムサンド1つ食べられない上司が心配だったが、ここでは何もできないので、とりあえず、金井は自分の仕事に戻っていった。
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3時を過ぎ、都立中野北高校の3年生たちが、帰宅を始める。
中には最終下校時間の5時半まで残る生徒も、教師から許可を取り、教師たちが帰り支度を始める7時ごろまで残る生徒もいるが、ほとんどの生徒が3時に校舎を出て、家・予備校・塾のどれかに向かう。
義人も健吾に促されて、3時には学校を出ていた。
「たまには、息抜きをしよう!」
健吾の一言で、義人は最寄り駅前の繁華街を健吾に連れられて歩いている。
息抜きといっても、せいぜいファーストフード店に入って軽く食べて、健吾が書店に入って週刊の漫画雑誌を買うのに付き合う程度のものだった。
「鏡、大変みたいだな。」
「仕方がないよ。二学期になってから志望校を変えるなんて、無謀なことをするからだ。」
「…まあ、そうだけどさ…。」
CDの新譜コーナーを眺めながら、二人は、今はここにいない鏡の話を始めた。
今、二人は駅前のCDショップにいる。健吾一押しのバンドの新譜が今日発売で、買いたくてしょうがないと、義人は引っ張り込まれたのだ。
2人の友人、浄岡 鏡は、何故か、2学期に入ってから志望校を変えた。理由は聞いていないが相当な覚悟らしく、今日も最後まで残って勉強をしている。
塾にも予備校にも通っていない鏡にとって、学校だけが頼みの綱なのだろう。
「僕よりも、浄岡の方が倒れそうだな。」
「…そうかも。」
義人とは違う意味で頑張りすぎる鏡を、義人は義人なりに心配している。ただ、素直じゃないので、本人の前では何も言わないが。
「―――じゃあ、これ、買ってくる。」
「うん。」
目当てのCDを手に、健吾は意気揚々とレジカウンターに向かう。
その後姿を眺めながら、義人はまたため息を吐いた。
時間帯が時間帯なだけに、店内は義人と同年代の客が多かった。制服を着ている者、私服の者、服装はまちまちだが、皆、J−POPや洋楽のコーナーを中心にある程度の人の流れを作っている。
その流れに乗って、義人も深く考えずに陳列棚の森の中をうろうろと彷徨う。
CDなんて、どれくらい買ってないだろう。
妹の巳緒が家の外に出られなくなった頃から、義人が漫画や音楽CDなどを買う機会は、めっきり減っていた。なんとなく、読んだり聴いたりする気分になれなくて、気がつけば、買うことをしなくなっていた。
それなりに好きな漫画も歌手もいたはずなのに、今の義人は、自分は何が好きだったのかさえ、はっきりと思い出せない。
そのくせ、そんな自分にショックを受けるわけでもない。取り残された寂しさも、別に感じてはいない。
無意味にクリスマスの飾り付けを施された店内を歩きながら、義人は最近では珍しく、勝久と受験以外に考えを巡らせていた。
健吾は、いつまで経っても戻ってこない。
見知らぬ歌手のアルバムを、何気なく手に取りながら、レジの方に顔を向ける。カウンターの前は、結構な人の列ができていて、健吾はその半分よりも後ろに並んでいた。なかなか列が動かないところを見ると、しばらく時間がかかりそうだ。
手に取ったアルバムを元の場所に戻して、義人はまたうろうろと店内を歩き始める。
概ね盛況な店の中で、一角だけ人気の少ない場所を見つけ、義人は人の流れからそこに抜け出る。
そこは、所謂「ヒーリング」と呼ばれる分野のCDばかりを並べているコーナーだった。
コーナーの平台には「疲れたあなたを優しく癒す、この1枚!」とポップが立てられ、10種類近くのCDが平積みされている。
同年代の客たちが、このコーナーに見向きもしないのを見ると、この手の音楽は、もっと上の年齢をターゲットにしているのだろう。
義人は、平積みされている中の1つ、「feeling」と題が付けられているアルバムを手に取りじっと見つめる。ジャケットは、日本ではないどこかの国の、草原の写真が使われている。見ているだけで、肩の力を抜きたくなる写真だった。
裏の曲目を見てみるが、題名に「風」やら「海」やら自然に関係する物が付けられているのが目立つ。音楽に詳しくない義人には、題名を見ただけでは、どんな音楽か想像もできない。
でも、義人はそのCDから目が離せなかった。
「おまたせーっ。」
ようやく会計を済ませた健吾が、満足そうな笑顔とともに義人の元に戻ってきた。
「どうしたんだ?」
「…別に。」
「別に」とは口で言っても、義人の視線はCDジャケットから離れない。
「あ、それ。今、OLとかサラリーマンの間ではやってるって。」
「どうして、野村が知ってるんだい?」
「うちの客が言ってた。」
健吾の家が洋食屋を営んでいて、健吾もよく手伝わされるのを思い出し、義人は軽く頷いた。
「サラリーマンって疲れるんだな。」
「……サラリーマンだけじゃないと思うけど。」
ちょっとずれた義人の感想に、健吾はちょっとだけ呆れた顔になる。
それもそうだと考え直して、義人はCDを棚に戻そうとする。
「リラクゼーションって言うの? 仕事に打ち込んでる人ほど、ハマるんだってよ。」
健吾の付け足したような一言に、CDを戻そうとしていた義人の手がピタリと止まる。
仕事に打ち込む……人。
山倉さんもこういうの、聞くのだろうか…。
自分の身近な存在で仕事人間といえば、勝久と父親ぐらいしか知らない義人。父親の昌義がこういった趣味がないことぐらい、仲が良くなくても知っている。
勝久はどうなのだろうと考えるが、イメージとしてはあまり結びつかない。
だったら、山倉さんのストレス解消法って何なのだろう…?
昨日、金井と電話で話した時に、金井がぼやいていた事を思い出す。
「最近、所長がおかしいんだよ。仕事ばっかりしてさ…。あんなに仕事して、ストレスだって溜まってるはずなのに、それでも休もうとしないなんて、ボクには信じられないよ…。」
金井の話では、勝久は、ここ一週間ほど追い詰められたように仕事をしているという。
ここ一週間と聞かされて、義人が電話口でドキッとしたのは、当然のことだった。
期待をこめて考えていいのなら、自分と同じように12月25日を意識してくれているということだろう。
1年前、勢いで好きだと告白した事を、勝久は忘れずにいてくれている。それだけでも、受験と待つことに疲れを見せていた義人には、自分でも驚くぐらい嬉しかった。
だからこそ、今日は余計に山倉のことを考えてしまう。
「義人、こういうのに興味あんの?」
健吾に手元を覗き込まれて、義人は我に返る。また意識を飛ばしていたことに気付き、自分の重症さにまたため息を吐く。
「……そういうわけじゃないけど。」
「じゃあ、誰かにプレゼント?」
プレゼントと言われて、義人は不思議そうな顔で健吾を見つめる。
びっくりした顔で義人に見られて、健吾もつられて驚く。
「だって、今日、クリスマスだろ?」
まあ、プレゼントあげるのって、クリスマス・イヴだけどと、続ける健吾を見て義人はさらにびっくりする。
そうか……、今日、クリスマスだ。
12月25日という日付を意識しすぎて、今日がクリスマス本番だとすっかり忘れていた。
戻そうとした手をもう一度胸元に戻して、義人は「feeling」をじっと見つめる。
「買う?」
健吾に訊かれて、義人は深く考える前にしっかりと頷いていた。
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午後6時。
勝久はいつまでも帰ってこないが、事務所を閉める時間になっていた。
1人留守を預かっていた金井は、席から立ち上がって扉を施錠し「Close」の札を掛けて、白いロールスクリーンを下ろす。
自分の仕事はまだまだ終わらないが、この作業をすると、一日が終わった気がするから不思議なものだ。
扉から自分の席に戻る際に、金井は壁に掛けてあるホワイトボードをチェックする。今年の春から増えた仕事量を管理するために設置した備品だが、これが結構重宝している。一目で2人のスケジュールがチェックできるので、今、どこに出かけているのかがすぐにわかる。
勝久は、3時の約束の後、裁判所にも行き、大きな弁護士事務所で行われている勉強会に参加することになっていた。
勉強会は、5時半から7時半の予定で書かれている。
そのスケジュールの合間に食事を取る時間はなさそうだと知り、金井はどっぷりとため息を吐いた。
事務所にいる自分がアレコレ心配しても仕方がないとは思うのだが、余裕がない勝久は5年に一度見られるか見られないかの貴重さなので、心配するなという方が無理だ。
ため息を吐いた後に、金井は方向を変えて給湯室に向かう。心配には変わりないが、仕事がある程度片付いていないと、不機嫌で帰ってきた勝久に何を言われるか判らない。頭の中を切り替えるのと気分転換のために、コーヒーを入れることにしたのだ。
トントン。
インスタントコーヒーに、砂糖とミルクをたっぷりと入れて戻ってきた金井の耳に、扉を叩く音が聞こえた。響きのないくぐもった音なのは、ガラスと何か軟らかいものが当たっているからだろう。
給湯室から出たばかりの金井は、マグカップをカウンターに置き、金井は恐る恐る扉に向かう。
今、勝久が戻ってくるわけがないし、客の予定も、もうない。この弁護士事務所に「緊急」の客はほとんどないので、余計に何者か判らなくて不安になる。
ロールスクリーンを少しめくり、外を確認する。
扉の前に立っていたのは、金井もよく知る、中里 義人だった。コートを着込み、手袋を着け、マフラーをしっかり巻きつけている義人の頬は、寒さのせいかほのかにピンク色をしている。
義人は、金井を見てペコリと頭を下げた。
金井は慌ててスクリーンを上げて、扉を開ける。
「どうしたの!?」
金井が素っ頓狂な声を上げる。それも仕方がないことだった。今年の春から、義人は判を押したように第3水曜日にしか事務所に遊びに来なくなっていた。予備校をサボりやすいのが、月に1日、第3水曜なのだという。
その第3水曜日は、先週だった。
今日は水曜日でもない。
そんな日に来ると、何かあったのかと心配になる。
特にこの目の前の高校生は、一度、所長である勝久にSOSを出した「前科」があるらしいので、イレギュラーな行動は心配になると言うものだ。
「すみません。仕事が忙しいのは解かっているんですけど、どうしても、渡したいものがあって。」
義人にしては珍しく、言葉が早口になる。それだけ、余裕がないという証拠なのだが、本人は必死なので気付いていない。
「とにかく、入って入って。」
急いでいるらしい義人を、金井は中に促す。
だが、義人はそれに首を横に振った。
「いえ。すぐ終わるので、ここでいいです。」
そう言うが早いか、義人は手に持っていた小振りの紙袋から、大小二つのラッピングされた物を取り出した。大きい物も小さい物も面積はそれなりにあるが厚みがない。
「あの、これ。大きい方は金井さんに。小さい方は山倉さんに。」
早口の勢いに乗って、義人は金井にそのラッピングされた物を押し付ける。
勢いに乗せられた金井は、合点がいく前にそれを受け取ってしまった。
「もしかして、これ………クリスマスプレゼント!?」
受け取った後で、包装紙の模様に思い当たり、驚きの声を上げる。どちらの包装紙にも、形や大きさ、色が違うクリスマスツリーが散らばっている。
彼女もいない上に1人暮らしの金井は、手の中の物を見るまで、今日がクリスマスだとはすっかり忘れていた。
「はい。いつもお世話になっているのに、僕、ろくにお礼も言ってないし。だから、日ごろのお礼だと思って、受け取ってください。」
義人はさっき以上の早口でそこまで言うと、今度は深く深く頭を下げた。
実は去年、世話になっている2人に、クリスマスに乗じて何かプレゼントをしようと、義人は考えた事があった。勝久への想いを自覚してから、かなりの日数が経っていたが、この時は、純粋に日ごろの礼をしたかっただけだった。
だが、それを知った勝久が、ちくりと義人に釘を刺した。
「気を使って、変なことを考えるな。子どもは、素直に大人に甘えていろ。」
いつものぞんざいなものの言い方で先手を取られてしまったため、去年は実行に移すことができなかった。
あの時、金井も傍にいた。去年のことを忘れてくれていれば幸いだが、勝久が今年も何か言っていれば、受け取るのを渋るかもしれない。
そう思うと、義人はなかなか頭を上げられなかった。
日ごろの礼をしたい思いは去年と変わらないが、今年は去年とは違って少し不純な動機も混ざっている。
だからこそ、「受け取れない」と返されては、困るというよりも悲しすぎる。
「………わかったよ。」
いつまで経っても頭を上げない義人に、金井は一言も拒否しなかった。
義人が顔を上げると、目の前には眉を八の字に下げて笑っている金井がいる。
「せっかく用意してくれたんだし、ありがたく貰うね。」
「ありがとうございます!」
「……あげたほうがお礼言うのって、違うと思うよ。」
「…そうですね。」
嬉しさのあまり最敬礼で礼を言う義人を、金井は微笑ましいといった様子で見ていた。
「ありがと、義人くん。ボク、クリスマスなんて、すっかり忘れていたんだ。だから、すごく嬉しいよ。」
改めて手の中のプレゼント見て、金井はようやく実感が持てたようで、満足気に笑っている。
その笑顔に、義人の良心がちくりと痛み出す。
少し不純な動機、それは、金井へのクリスマスプレゼントが後付けだったこと。深く考えずに、CDを買ってしまった(それもラッピングまでしてもらった)義人は、買ってしまったからには、どうしても勝久に渡したくなってしまった。普通に渡せるわけがない手の中のプレゼントをどうしようかと考えた時に思い出したのが、去年は駄目だった「日ごろのお礼」だった。
うまい口実を見つけて、義人は、誰にあげるのかを興味津々で探ってくる健吾を引っ張って、書店に入った。金井へのプレゼントは、彼が好みそうな風景の写真集なのだ。
そういった経緯のため、何も知らない金井が素直に喜んでくれると、嬉しいのだが、徐々に申し訳なさも増してくる。
「じゃあ、こっちの方は、ちゃんと所長に渡しておくね。」
今頃になって、金井は勝久がいないことを義人に告げる。
勝久がいないと聞かされた義人は、残念に思う一方で顔を合わさずにすんだことにほっとする。
今日ばかりは、特別すぎて顔を合わせづらい。何か言われるのが怖い。
勝久と顔を合わせれば、不安ばかりが押しよせてくる違いない。
だから、今日は会いたくない。
「お願いします。それじゃあ、僕、帰ります。」
「入っていかないの?」
金井の誘いは、義人にとっては魅力的だった。居心地のいいあの空間に、月に2回も入れるのは、この上ないストレス解消法だから。
それでも、今日の義人は首を横に振る。
「仕事の邪魔をしたくないですから。それに、友達に『今日は家に帰ったらすぐに寝ろ』って、怒られた後なので。」
嘘ではなかった。
健吾と池袋駅で別れる際に、しっかりと言われてしまったのである。
「せっかく予備校に行かなかったんだから、今日は家に帰ったらすぐに寝ろよ。爆睡して、明日は元気になれよ。」
今日の自分が、いかに魂が抜けていたかを知らされる一言に、義人が言い返せるわけがなかった。
その場で素直に頷いたから、すぐに解放されたものの、あの時に一言でも不平を言えば、30分は放してもらえなかっただろう。
「そうだね。たまには、ゆっくり休んだほうが身体にもいいし。」
金井も金井なりに、義人の身体を心配していたのだろう。顔も知らない義人の友人の言葉に、うんうんと頷いている。
「もう暗いし、気をつけてね。」
無理に義人を引き止めず、金井はすんなりと別れの言葉を口にする。
「はい。失礼します。」
もう一度、頭を下げて、義人は踵を返した。
「いつでもいいから、息抜きしにおいでよ!」
義人の背中に、金井の声がぶつかる。義人は後ろを振り返り、バイバイと手を振る金井にまた頭を下げた。
再び歩き出した義人の顔には、プレゼントを渡せた嬉しさと満足のあまり、幸せを噛み締めるような笑顔が浮かぶ。幸いにも、口元はグルグルに巻かれたマフラーの下のため、往来に出てもすれ違う人に、不審な視線を貰わずにすむ。
昼間が、ここ1年の鬱々とした気分が、夢だと思えるほどに晴れやかな気分で義人は家路に着いたのだった。
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あの……バカ!!
午後9時半。
事務所を閉めて自宅に帰ってきた勝久は、ダイニングテーブルにビジネスバッグを叩きつけた。
疲れと空腹のせいで、苛立ちも倍増している。
7時半に終わる予定だった勉強会が、30分程度ずれ込み、終わったのが8時を少し回ったころ。その後、付き合いで他の弁護士たちと居酒屋に入り、何も入っていない胃に少しアルコールを入れた時点で、仕事を理由に早々に店を出たのが9時前。9時15分に自分の城に戻ってきた時には、もう金井は帰った後だった。
その事で、勝久は怒っているわけではなかった。
自分の机の上に置かれていた物に、勝久は子供のような癇癪を起こしているのである。
ファイルが乱立している机の上にあったのは、昼間も見たコンビニの袋と金井の置手紙と折り畳まれた1000円札1枚、そして、クリスマス用にラッピングされた薄っぺらいモノだった。
金井の置き手紙には、こう書かれてあった。
「お疲れ様です。昼間の食料、忘れないように机の上に出しておきました。食事代、多かったので、1000円お返しします。それと、今日、夕方に義人くんが来ました。机の上に置いてあるプレゼントは、義人くんからのクリスマスプレゼントです。中身は聞いてないので分かりません。ちなみに、ボクのは風景の写真集でした!」
その手紙を読んだ瞬間、勝久は薄暗い事務所の中で怒鳴ってしまった。
「なに考えてるんだ、あのバカは!!!」と……。
日ごろなら、怒るにしても小さな怒りで終わる事柄だが、今日は神経が過敏になっているうえに、一日何も食べていなかったのと疲れが溜まっているため、小さな事でも怒りが噴き出してしまった。
怒りをぶつける相手がいないため、勝久は事務所で怒鳴り、残っていた仕事をする気力も萎え、早々に自宅に帰ってきた。
ビジネスバッグを叩きつけたのは、まだ怒りが収まっていない証拠だった。
だいたい、勝久の怒りが誰に対して向かっているのかというと、実はプレゼントなんて寄こしてきた義人によりも、それをもらって喜んでいる金井に、だった。
子どもにプレゼント貰って、純粋に喜ぶな! このバカが!!
アルバイトすらしていない子どもにプレゼントをもらって、素直に喜んでいる(その上、それをしっかりと勝久に報告している)金井の神経に腹を立てているのだ。
去年、プレゼントを考えていたらしい義人に釘を刺したのは、義人に余計な気を使わせて、それが習慣になるのを恐れたからだ。
義人が未成年のうちはまだいい。都合できるプレゼントも小額だろうし、貰う側もそれほど気を使う必要はない。それこそ、「子どものやること」で終わらせられる。
だが、義人が成人して、その上、社会に出た後まで習慣が残ったとなると、話は別だ。子どもの時から続いているからといっても、それは大人の付き合いでしかない。勝久・金井と義人の間柄は、「友達」とは少し違うのだから。
…ん?
そこまで考えて、勝久の思考が唐突に止まった。
……何を考えてるんだ、俺は…。
自分の考えていたことにあきれ果て、最後には少し苦い気分になる。
義人が成人して社会に出た後まで、今の付き合いが続くわけがないのだ。そもそも義人の事務所通いは、家での孤独や寂しさを紛らわさせるために始まったもので、大人になれば事務所通いは必要なくなるはずなのに。
それに、環境が変わり、生活サイクルも変われば、事務所に顔を出す余裕(時間的にも誠意心的にも)など、今以上になくなるはずだ。
にもかかわらず、勝久は、今の義人との付き合いが続くことを前提に考えていた。いつまでも、義人がいることを当たり前のように受け止めていた。
「はあぁ……。」
コートと上着を椅子に引っ掛けた勝久は、ため息とともに別の椅子に座った。
自分の思考回路のぶっ飛び方が、疲れている身体を余計に疲れさせた。
もう、考えるのをやめよう……。
日取りが悪い。と、12月25日のせいにして、勝久は考えるのをやめるように努める。義人の事しか浮かばないこの状態は、想像以上に勝久の神経をすり減らしていた。
不思議なことに、考えるのをやめようと決めたら、金井への怒りもしぼんでいた。実は、金井への怒りは八つ当たりだったのだと気づき、それにもどっぷりとため息を吐く。
疲れた頭と身体を癒すつもりで、勝久はのろのろと金井の買ってきた食糧を漁る。
だが、食べかけていたハムサンドを取り出した時に目に入ったのは、義人が買ってきたクリスマスプレゼント。
紺色の中に白いクリスマスツリーがプリントされた包装紙。アクセントに付けられたラッピング用のシールは、金色で「Merry
X’mas」とプリントされたものだ。
カードも添えられておらず、素っ気無いことこの上ないプレゼント。
あのキャラクターで、クリスマスカードなんて付けられても、貰ったほうも困るけどな。
やめようと努めていた矢先に、結局、勝久の頭の中は義人に戻っていた。そんな自分に気付くが、もう自分自身に抗う気力はなくなっていた。
ハムサンドを銜え、勝久は義人のプレゼントの包装を解く。貰った以上、どんなものかぐらい確認しなければ用意した義人に失礼だと、自分に言い訳しながら。
「…なんだこれ。」
紺色の包装紙の中から出てきたのは、「feeling」と題名の付けられたCD。空と草原しか写っていないジャケットを見ただけでは、何のCDか全く分からない。裏を見てみるが、曲名のような羅列を見ても、それだけではどういう種類の音楽かも全く分からない。
CDの帯には、「音楽と自然の融合が、アナタを癒す……。ヒーリングの最高峰―――」と、なんとも長い銘が打たれている。
音楽CDには違いないらしいが、何のジャンルか全く解らない。
解らなければ、すごく気になるではないか。
「仕方ないな。」
ハムサンドを食べながら、勝久はCDの封を切った。ビニールを剥がし、ケースを開けると、ジャケットとイメージが重なる空色のCDだけを手に取り、椅子から立ち上がった。
リビングダイニングに直接繋がっているベッドルーム。勝久は、扉を開けてそこに入っていった。
CDを一旦、ベッドの上に置くと、その下の収納スペースからCDプレイヤーを取り出した。
もうここ2年ほど使っていなかったため、仕舞っておいた物だ。
家には眠りに帰ってくるだけの生活で、休日も家で仕事をしている状態なので、音楽を聴かなくなっていた。外に出していても邪魔なだけなので、ベッドの下に仕舞ったのだ。
スピーカーと一体型のCDプレイヤーに、2年ぶりに電気を通す。枕元にプレイヤーを置き、ベッドヘッドのプラグにコンセントを繋いでスイッチを入れる。
独特の電子音を聞いてから、勝久は義人のCDをプレイヤーにセットした。
再生ボタンを押して、勝久はベッドから離れた。
ネクタイを解きながらワードローブを開ける頃になって、ようやく勝久の耳にスピーカーからの音が聞こえた。
その音を聞き、ネクタイを専用のハンガーに掛けながら、しかめっ面を作る。
……これは…。
川のせせらぎをバックボーンに、聞こえてきたのは穏やかで小さなピアノの音。さらさらと流れてくる鍵盤の音は耳触りが柔らかく、身体の力を抜くには十分効果的な曲だ。
よりにもよってこの分野かと、勝久は今日何度目か分からないため息を吐いた。
勝久はクラシックやそれと似たような音楽が苦手だった。
今はそうでもないが、義人と同じような年齢の頃は、ロックバンド以外は音楽じゃないと意気込むほど、イギリスやアメリカのロックバンドにのめりこんでいた。そのためか、今でもクラシックには、「固い・高尚」のイメージが拭えずにいる。
昔ほどではないが、今でもビートの効いたハードなロックには心を奪われるし、レッド・ツェッペリンやディープ・パープルなど、10代からのめりこみ続けたバンドの楽曲を聴くと心が躍る。
だから、このアクセントもなければ強弱もない、心地よい耳触りだけが売りの(ように、勝久には聞こえる)音楽など、音楽としては物足りない。もっと心にも身体にも余裕があれば、聴いているうちにイライラが募るかもしれない。
もっとも。今はもう、そんな余分な体力も精神力もないが。
そういや、柾次が好きだったな、この手の曲。
勝久の弟・柾次は、兄とは違い、クラシックも平気で聴く。曲や奏者、指揮者によっては、自らCDを買い求める柾次は、JAZZからJ-POP、時には演歌や伝統音楽と、音楽の趣味が幅広いと言えば聞こえはいいが、要するに、気に入れば無節操に聴くのである。
服をビジネススーツから、長袖のTシャツとスウェットパンツに着替えている間に、「このCD、あいつにやろうかな。」と、とんでもない考えが浮かぶ。
だが、さすがに実行した後の後味の悪さを想像し、考えるだけでやめておくことにする。
着替え終わって、ようやく肩から余計な力が抜けた勝久は、そのまま、ベッドの上に身体を投げ出した。
スピーカーからは、相変わらず、触れれば優しく包み込んでもらえそうな柔らかな音が聞こえてくる。
しばらく、その柔らかいだけの音に、耳を傾ける。
ふんわりとした音を聴いていると、今日一日、いやこの一週間、「12月25日」を意識するあまりに無理ばかりしてきた自分が、バカバカしく思えてくるから不思議だ。
毎日毎日、無意識に考えているのは義人のことの癖に、今さら何を焦っているのかと、頭の中の一部分が、勝久をせせら笑う。
その通りだと、今は勝久も素直に頷けるが…。
それが、CDのキャッチコピー通りに「癒された」結果の変化なのかは、ヒーリング・ミュージック初体験の勝久には解らなかった。
まずいな……。
ただ、このCDは、眠りを誘うには効果抜群のようで、勝久の瞼は徐々に重さを増していく。
ろくすっぽ食事もしていない状態で眠るのは、さすがに明日に響くとは頭では解っているのだが、その頃には、身体は動かすのが面倒なほどに重くなっていた。
スピーカーは、一度無音になったが、数秒後にまた別の音を紡ぎだす。次の曲は、ヴァイオリンの独奏曲で、そのスローな曲は何故か部屋の空気を暖かくする。
まだ曲を流しているプレイヤーのボリュームを、勝久は無意識のうちに「最小」に調整した。
もそもそと、起き上がらずに器用に布団の中に潜り込んだ勝久は、ほとんど眠りに落ちかけている頭で、考えていた。
貰いっぱなしじゃ悪いから、何か、してやらないと……、と――――。
音楽をかけたまま眠りに落ちた勝久が、次の日の朝、驚くほどに爽快な目覚めを体験したことは、言うまでもない。
眠りに落ちる少し前に考えていた事は、綺麗さっぱり忘れ去っていたが…。
勝久が、義人の想いに答える決心がついたのは、これから2ヶ月も先の事である。
・END・
●○あとがき○●
2004年のクリスマス企画は、「Verbal Promise」の短編、空白だった高3のクリスマスになりました。
勝久の非常に大人気ない行動を、しっかりと書けて、ある意味、私は幸せです。
こいつを書いてると、何故か、私がストレス解消されるのです(笑)。
作中に出てくる「feeling」というタイトルのCDですが、モデルはありません。
強いて言うなら、昔、ヒーリング・ミュージックが一世を風靡(?)した頃に、バイト先で売っていたCDを思い出して書いたので、それがモデルです。
でも、どんなタイトルだったか、どんな音楽だったか、残念ながら覚えてないので、中身は思いっきり想像です。
ヒーリング・ミュージック好きな方の、鋭いツッコミ入ること、請け合いかも…。
ちなみに、「feeling」というタイトルのCDはあります。なんせ、ベタな名前なので(笑)。
本物の「feeling」は、葉加瀬 太郎とか、ああいう系(どういう系?)の音楽のオムニバスCDだったはず…。
勉強不足ですね。また調べときます…。
2004.12.21.初出、2005.1.12.再アップ 下月 春夏