前置き
2/14のバレンタイン企画で載せた短編の改訂版です。
前回同様、兄弟のブラコン度だけがわかる小説です。
そこら辺をご理解の上、読んでください。




●●奇妙なバレンタイン(改訂版) 「いとこ」番外編●●   作:下月春夏


 寒さ厳しく、春はまだまだ遠い2月中旬。

 浄岡 架(じょうおか かける)が勤務する、モデルプロダクション「FLASH」経理課は、業務に追われていた。
 各部署から回ってくる請求書・領収書・納品書など、または各種伝票をもとに、パソコンで帳簿を作成する。業界内では規模が小さい事務所でも、仕事をすればそれなりの金は動き、怠けていると処理する書類が増えるだけだ。
 特に、会期末は計ったかのように書類の量が増える。おかげで最近、残業が多く、架の帰宅時間は遅くなる一方だった。

 そんな忙しい日々にも関わらず。

 今日は、社内の空気が微妙におかしい。

 特に男性社員は落ち着かない様子で、重症の者では仕事に手がつかない人間もいる。
 架の真向かいに席を置く、先輩の赤瀬 信二も今日は集中力が欠如していて、20分毎に机から顔を上げ、周りをキョロキョロと見回す始末。
 そんな微妙な空気が気にならないと言えば、さすがに嘘になるが、架は特に気にとめていなかった。
 むしろ、思った以上に仕事が早く終わりそうで、久々に早く帰れる喜びに、内心打ち震えていたのだった。
 生き別れていた弟の鏡(きょう)との2人暮しは、架にとってはまさに夢の実現であった。もうすぐ、同居1年だが、まだ夢心地から抜け出せない。
 26年の人生の中で、これほど幸せを実感している日々はなかった。伯母夫婦に育ててもらった身分で、贅沢な感覚かもしれない。それでも心の隙間が埋ったのは、鏡との再会と同居がキッカケだった。
 だから、残業で家に帰る時間が遅くなればなるほど、架は淋しくて仕方がないのだ。

 だから、社内の空気がおかしくても。
 目の前の同僚が挙動不審でも。

 架は早く家に帰ることが一番重要だった。

 時間はもうすぐ18時になる。
 まだ書類は残っているが、順調に行けば19時には会社を出られる。

「浄岡くん、ちょっといい?」

 仕事の皮算用に、架がにんまりと笑みを浮かべた時、背後から声をかけられた。

「菅沼さん、お疲れ様です。」

 振り向いて架が見たのは、声の主。同じ経理課の菅沼 美加。経理課女性陣のリーダー的存在だ。姉御肌で後輩の面倒見がいい菅沼は、男女問わずに人気が高い。
 しかし、架は菅沼は少々苦手なのだが、周りの反応が怖くて、一度も口にした事はない。
 その菅沼はもう帰り支度を済ませていて、後は会社を出て行くだけの装いだった。

「お疲れさま。浄岡くんはまだ帰らないの?」
「ええ。これが終われば、帰ります。おれに、何か用ですか?」
「そうそう。はい、これ。」

 彼女が声と共に差し出したのは、ワインレッドの包装紙とダークブラウンのリボンでラッピングされた綺麗な箱。

 一見すれば、それがプレゼントなのだとよく解る物体…。

「…す、菅沼さん、なんなんですか、これ?」

 突然の珍事に、周りの痛い視線を気にせずに入られない。特に向かい側の赤瀬の視線が痛い。何故かよく解らないが、視線の鋭さが他の比ではない気がする。

「やーね! 何を驚いてるのよ。義理チョコよ義理チョコ。」
「は? チョコ??」
「ほんっとに浄岡くんって、ぬけてるわね。今日はバレンタインデーでしょ。」
「あー! 今日、バレンタインですか!」

 菅沼の言葉で、架はようやくこの珍事の原因に思い至った。なら、社内の空気が違う原因も解る。今日がそんな一大イベントの日だとは、架は今まで気付かなかったのだ。

「浄岡くんだけよ。このオフィスの中で普段と変わらないのは。他の男連中は、今日ばかりはチョコがもらえるかってドキドキしてるのに。」

 言われてみれば、確かにその通りだと、架は納得した。特に赤瀬が顕著な態度を示しているのを見て、彼がバレンタインチョコを欲しがっているのだと知る。

「…バレンタインなんて、ほとんど縁がなかったので…。」
 自慢になるのか解らないが、架がチョコをもらった事があるのは社会人になってからだ。それも義理チョコだけ。
 特に女の子からチョコを期待する人生を送っていたわけでもないので、毎年、忘れてしまうのである。

「へぇ、浄岡くんってもてそうなのに。」
「そう見えるだけですよ。」

 探りを入れるような菅沼の言葉に、架はただ苦笑するしかなかった。

「とにかく、はい。私とエビちゃんとミツコさん、3人共同出資の義理チョコです。」
「あ、ありがとうございます。」

 菅沼からチョコを受け取りながら、離れた場所にいる蛯名 静香と川辺 美津子の両名を探し出し、目礼する。目礼する架に気付いた両名は、にっこり微笑んで手を振ってきた。
 経理課全女性陣の共同出資だと聞き、架は安心してチョコを受け取った。

「はい、こっちは赤瀬くん。」
「あ、ありがとうございます!」

 架と菅沼のやり取りを、息を潜めて見守っていた赤瀬に、菅沼は変わらない笑顔で別の小箱を差し出す。
 義理チョコを嬉々として受け取った赤瀬だが、その大きさに少し戸惑った表情を見せる。
 それは、架も同じだった。
 同じ義理チョコなのに、架と赤瀬が受け取った箱の大きさは明らかに違う。

「あの、菅沼さん…。これ、本当にオレが貰っていいんですか?」

 どういう意図があって大きさが違うのか図りかねて、架はついつい菅沼に訊いてしまった。赤瀬も同じ疑問を抱いていたようで、無言で架の問いかけに頷いている。

「そうよ。浄岡くんの分。弟くんと2人で食べてね。」
「え…? 弟…と?」

 それは、話が妙な方向にずれた瞬間だった。

 どうして、ここに鏡が出てくるんだ…?

 架が弟の鏡と2人暮しだというのは、経理課内では有名な話だ。ブラコンを隠さない架の机の上には、鏡の写真が飾られているし(仕事で嫌な目にあった時、鏡の写真でストレスを癒すのだ)、臆面もなく鏡の話をするので、同僚たちには半ば呆れられているのだ。
 だから、菅沼が架の弟の存在を知っているのは、むしろ当たり前なのだが、どうしてこのタイミングで、弟の話が出てくるのかが解らない。

「そうそう。弟くんと2人分。もしかして大きさ違うから、ドキドキした?」
「ま、まさか……。」

 菅沼のからかい口調に、架は笑って誤魔化した。本当は少し驚いたと言うには、少し口惜しいので秘密にしておく事にする。

「じゃ、じゃあ、ありがたく頂戴します。弟の分まで気を使ってもらって、ありがとうございます。」
「い〜え。でね、浄岡くん。来月のホワイトデーの、リクエストなんだけど        
 素直に礼を言った架に、菅沼は意味ありげな笑顔を見せたのだった。


                     ●○●○●○●


 菅沼とのやり取りから、2時間半後。

 いつものビジネスバッグともう1つ、小ぶりの紙袋を持って、架は八王子のコーポに帰ってきた。
 紙袋の中には今日の功績が入っている。功績と言っても、義理チョコ5個だけなのだが…。
 あの後、仕事の都合上よく顔を合わせる総務課の女性3人と所属モデルの子1人からも義理チョコを貰った。去年も貰ったらしいのだが、架は覚えていない。
 「今年もお返し、期待してるね。」とチョコを押し付けられ、架は少々げんなりしていた。バレンタインに夢を持つ年頃ではないが、あまりに女性達がシビアなので、いくら毎年忘れていても、少しくらい夢を見させてほしいと思ってしまう。

 だがそれは、今日一日を振り返ると、小さな出来事でしかない。

 架にとっての本日のメインイベントは、これから始まるのだ。あれだけ帰りたかった家に、今の架は少しだけ帰りたくない。
 こんなに気が重いのは、鏡と同居を始めてから初めてのことだ。
 白い息を吐きながら、架は鍵を開け、冷たいドアノブを掴んで扉を開けた。
「ただい       
 「ま」と続くはずの言葉が出なかった。扉を開けた瞬間、架の鼻に、甘ったるい匂いが纏わりついてきた。

 な、なんなんだ、この匂い…!

 同居して一年になるが、この家でこんな甘ったるい匂いを嗅いだことはない。洋菓子の匂いだと解るのだが、こんなに濃厚な香りは嗅いだことがない。
 胸焼けしそうな甘ったるさに、架は思わず手で鼻を塞いでしまった。

「おかえりー。」

 架にとっては異常事態なのに、鏡の声は普段と変わらない。
 この一年、毎日聞いてきた大切な大切な弟の明るい声が、いつもと同じように架を癒してくれるのだが、今はそれだけではなかった。

 短い廊下をダイニングキッチンまで小走りで駆け抜ける。

「ど、どうしたの、兄さん?」

 勢いをつけてダイニングに飛び込んできた架を、鏡がびっくりした顔で振り向いた。亡き母に似た大きな目が、驚きのあまりますます大きく見開かれている。
 架がキッチンで見たのは、普段どおりの鏡の姿だった。セーター、Gパンの上にエプロンを引っ掛けて、調理台に向かって、夕食の準備をしている。
 しかし普段どおりなのは、鏡と調理台付近だけだった。いつもなら夕食の支度が整っているダイニングテーブルの上は、使った跡が残るまな板やら包丁、ボールが数個、その他、ざっと見ただけでは何がなんだか解らない物が散乱している。

 何がどうなのかよく解らないが、ここで菓子作りが行われたのは明白だ。

「どうしたのは、こっちのセリフだよ。これは一体……?」
「あ、うん。すぐ片付けるから。ごめん、今日はあっちで晩飯にしていい?」
「それは別にいいけど…。」

 鏡が言う『あっち』とはリビングの事だ。普段は食事には使わないが、この惨状ではダイニングテーブルでの食事は絶望的だろう。
 何がなんだか解らないが、鏡は夕食の準備に必死のようなので、とりあえず今は何も聞かないでおく事にした。
 とにかく、今は重い荷物と堅苦しいビジネススーツを脱ぎ捨てて、現実から少し逃げ出したかった。

 鏡が全ての後片付けと夕飯の準備を終わらせて、リビングに入った頃には、もう9時近くになっていた。水炊き用の鶏肉とお手製肉団子のタネを抱えて、鏡が現れる。

 俄かに、架に緊張が走る。

「兄さん、お待たせ。」
「ああ、うん。」

 鏡に気付いて、架は見てもいなかったテレビのスイッチを切った。2人で食事をする時はテレビを観ない。架と鏡が同居を始めた時に決めたルールの1つだ。いくら実の兄弟でも、15年も離れて暮らしていれば、生活習慣の違いは多かった。やっと巡りあえた生き別れの弟との、夢の生活を些細な違いでダメにしたくなくて、架が提案した同居のルール。

 今のところ、このルールは大切に守られていて、架は不快な思いはしていない。
 鏡もそうだと架は信じている。
 不満があれば、この弟ははっきりと言うからだ。
 同居を始めた頃は、気を使っているのがよく解った。よそよそしい態度が、多く見られて、架はしばしば淋しい思いをした。実の兄の存在を寝耳に水だったらしい鏡にとっては、架は戸惑いの象徴でしかないとは聞いていた。だが、理性で解っていても、感情はやっぱり淋しく思ってしまう。

 しかし、日々の生活で鏡は架を受け入れてくれるようになった。
 少しずつ心を開いてくれるようになった。この可愛い弟は、見た目は亡き母によく似ているが、中身はどことなく亡き父親に似ている。根は真っ直ぐで感情をすぐ口と態度に出してしまうのだ。

 よく怒り、よく笑う。感情豊な子なのだ。
 先に用意されていた土鍋に火をかけ、遅い夕食を始める。一度、ゆで汁を温めてあったのだろう。鍋からはすぐに湯気が立ち始めた。

「鏡。この甘ったるい匂いは何?」

 緊張とともに、架は早速鏡に訊いた。
 訊きたくて訊きたくて、仕方なかったのだ。

 何故、ダイニングテーブルの上に洋菓子を作った跡らしき物が散乱しているのか。架は着替えながら懸命に考えた。
 懸命に考えて考えて、ある事を思い出す。

 今日はバレンタインデー。女性が男性にチョコレートをプレゼントして、愛を告白する日。

 ま、まさかな……。

 1つの可能性を思い浮かべ、セーターを引っ被る手が止まってしまった。
 バレンタインデーに男所帯の我が家で洋菓子作りが行われるとは、タイミングが良すぎる。

 彼女……いる…のか…。

 現実的なその可能性に、架は少々呆然とする。
 もうすぐ18歳だし、受験に受かれば春には大学生だ。
 彼女がいてもおかしくない。
 それに、お互いに大変な受験戦争に身を投じているのだ。バレンタインデーなんて特別な日くらい、受験を忘れてデートぐらいしたいだろう。
 その延長線上で、昼間に彼女がこの家に上がりこんで、鏡の目の前でお菓子作りを披露したのかもしれない。それとも鏡が料理をできるのを知っていて、二人で楽しくお菓子作りに興じていたのか…。
 想像だけが先走っているのだが、もう架は自分が考えている事こそ真実だと錯覚を起こしていた。
 錯覚して、焦り出していた。

 問い詰めて、彼女がいるって言われたらどうしよう……!

 自分の大切な弟を赤の他人の少女に取られていたのだ。本来なら応援してあげるべきなのだろうが、まだ新米兄貴の架に、そこまでの気持ちの余裕はない。

 衝撃が大きくて、架は半泣き状態になっていた。

 でも、おれが正直な気持ちを言えば、鏡はきっと反対されたと思う。
 それが原因で兄弟の間に溝ができるのだけは、絶対に避けなければならない。

 もし彼女がいるって言われても、大人の態度を示そう。

 必死に架は自分に言い聞かせて、リビングに向かったのだ。テレビをつけ、視線だけはブラウン管に固定して、しかし頭の中では、「大人の態度、大人の態度。」と呪文を唱えるように呟いていた。
 そして、現在に至るのである。

「あ、まだ匂う?」

 架の葛藤を知らない鏡は、鍋の中に肉を入れながら笑った。

「匂うってモノじゃないよ。玄関を開けた瞬間、胸焼け起こしそうになった。」
「え、マジ? あれ〜、俺の鼻、バカになってんのかな。」

 野菜と肉団子のタネも鍋に入れ始めた鏡は、スプーンを持った手の袖口で鼻を擦る。

「なってるよ。で、これ、何の匂い? お菓子だって事はわかるんだけど。」

 鍋に放り込まれていく野菜を見ながら、架は鏡の答えを急かした。聞きたくない気もするが、早く話題を終えてしまわないと、自分の神経が持ちそうにない。

「……兄さん、笑わない?」

 突然、声のトーンが落ちた鏡に、架はいよいよかと内心ドギマギする。

「笑うような内容?」
「そうじゃないけど、男のくせにとか思われるとイヤだから。」
「は、話が見えないんだけど…?」

 どうも話が妙な方向に逸れようとしている。
 予想とは違うかもしれない展開に、少し期待してしまう。

「今日、バレンタインだろ? だから、チョコレートケーキ作ったんだ。」
「……だ、誰と?」
「……1人だけど?」

 「彼女」の一言が出てこないので、架は思わず訊いてしまった。
 不思議そうな顔をする鏡を見て、本当に1人で作ったのだと察し、架は密かに安心した。
 だったら、「バレンタインだからチョコレートケーキ」という発想はどこから出てきたんだ?
 鏡の考えが、架には今一よく理解できない。

「…どうして、バレンタインにチョコケーキなんだ?」
「……絶対に、笑わないでよ。」

 訊いた架に、鏡は前置きをおいて理由を話し始めた。
 坂崎の家に引き取られる前、鏡がまだ施設にいた頃。毎年2月14日の夕食に、チョコレートケーキが出ていた。不公平感を出さないための先生たちのアイディアだったのだが、幼かった鏡には解るはずもない。
 2月14日の意味も解らず、「2月14日は皆でチョコレートケーキを食べる日」だと、小さな鏡は勝手に思い込んだのである。

 それが勘違いだと知るのは、坂崎の家に引き取られてからである。坂崎の母親から人生で初めてのバレンタインチョコを貰った時だった。
 坂崎の家で初めてバレンタインの意味を知って、鏡はそれ以来「チョコレートケーキ」の習慣を忘れ去ったのだが。

 坂崎の両親が逝去してから3回目のバレンタインデーに、「チョコレートケーキ」の習慣を思い出した。

 バレンタインの意味は重々承知していたが、もう坂崎の母親に会えない寂しさを紛らわせる為に、鏡は勝手に「チョコレートケーキ」の習慣を再開した。
 だが、思春期真っ只中だった鏡に、女の子ばかりが出入りするケーキ屋は敷居が高かった。スーパーやコンビニで買っても、レジ係の女の人に変な目で見られるかもしれないと思ってしまい、ケーキに手が出せなかった。
 そこで、自分で作る事を考え出したのである。値が張るが、恥ずかしい思いをするよりマシだと思ったのだ。
 バレンタインデーに、突然、チョコレートケーキを作り始めた鏡を、坂崎の兄・ワタルは諌めた。

 そんな事したって、淋しいだけだぞ、と。

 たが、鏡は頑固だった。チョコレートケーキ作りを止めなかったのだ。ムキになってケーキを作る鏡にワタルは降参し、鏡に付き合ってチョコレートケーキを食べるようになったのである。

          ってわけ。兄さんも、俺のしてる事『ガキっぽい』と思う?」

 出来上がった鍋の中身をつつきながら、鏡は少々膨れっ面を作る。今までこのバレンタインの鏡の習慣を知った人間のほとんどが、鏡の行動を「子供っぽい」と馬鹿にするという。

 鏡と同じように鍋の中身をつつく架は、笑わなかった。

「ぜんぜん。鏡の気持ち、よく解るよ。」

 15年前、架も鏡と同じ気分を味わった。
 毎年、亡き母はバレンタインには架にチョコレートをくれていたのだ。事故で両親が逝去した後、亡き母の代わりに伯母が毎年チョコレートをくれるようになったが、淋しいのには変わらなかった。
 淋しさを紛らわすためにチョコレートケーキを作り始めた鏡を、架が馬鹿にできるわけがない。自分には母の代わりをしてくれる存在がいたが、坂崎の両親が亡くなってからの鏡にはそんな存在はいなかったのだ。
 たかが年中行事なのだが、そこに拘ってしまう気持ちは、痛いほどよく解る。

「ほんとに?」
「鏡に嘘ついても、俺には何の得にもならないよ。」
 それに、嘘ついたら晩飯食べられないじゃないかと、架が茶化すと、鏡は満面の笑みを浮かべた。

 その笑顔を見て、架は自分の不安が杞憂である事を察した。よかった〜と、密かに胸を撫で下ろす。

「で、作ったケーキはどうしたんだ?」
「冷蔵庫ん中。今冷やしてる。」

 ケーキの影すらなかったので、架は鏡が食べたのかと思っていた。だが、そうでもないらしい。
 それを口にすると、鏡は笑った。

「1人であんな大きなケーキ食べたら、それこそ胸焼け起こすって。」
「どれだけ大きなケーキを作ったんだ?」
「ケーキ屋さんで売ってる、誕生日ケーキぐらいの大きさ…。」

 どうしてそんな大きいケーキを作ったのだと聞けば、スポンジケーキの型がそれしかなかったのだと言う。

「…しばらく、甘い物には困らないな……。」

 部屋に置いてきたチョコレートの紙袋を思い出し、架はため息をついた。
 「鏡の彼女」問題ですっかり忘れていたが、自分には使命もあるのだ。

「そういや、兄さん、チョコもらえた?」

 バレンタインの話題で思い至ったのか、鏡がこの日に一番交わされるであろう決まり文句を出してきた。

「一応……。」

 あまり訊いて欲しくなかった。
 架の気持ちなど知るよしもない鏡は、無邪気に本日の成果を言わせようとする。
 そんな鏡に逆らえるわけがなく、架は渋々会社の事を話題に出す。

「義理で5個……なんだけど…。」
「けど?」

 言い淀む架を、鏡は容赦なく追求する。
 ため息と共に、架は昼間の菅沼とのやり取りを鏡に話した。

「え! 俺にもくれたの!?」

 思わぬプレゼントに、鏡は純粋に喜ぶ。今まで、自分の習慣以外に全くチョコと縁がなかった鏡なのだ。いくら兄のおこぼれでも、嬉しいことには変わりない。

「……で、な。チョコのお返しなんだけど、リクエスト頼まれたんだ……。」
「え? 何? 俺、OLさんが喜ぶような高い物なんて、ムリだよ。」

 困ったような口ぶりだが、顔はにやけていた。来月のホワイトデーに参加できるのが、嬉しいのかな?と、架は愛弟を見詰めながら考えた。

 その顔を見ながら、架は心の中で謝る。そんな問題じゃないのだと…。

「いや、そういう物じゃないんだ。…実は、その3人、鏡の作った弁当が食べたいらしくって……。」

 あの後、意味ありげな笑みを浮かべた菅沼は架に言った。

「私たち、弟くんが作ったお弁当が食べたいわ。」と       

 架が、毎日、愛妻弁当ならぬ愛弟弁当を持って出勤してきている事を、菅沼たちは知っていた。手作り弁当を持ってくる架には、絶対に彼女がいる!と思い込んだ彼女たちは、何度も何度も架を追及したのだ。結局、架は耐えられずに白状したのだ。
 架から弁当の真相を聞いてからというもの。菅沼たち3人は、冗談めかして「美味しそう。」「卵焼き、ちょうだい。」「いっそのこと、弟くん、お嫁にちょうだい。」と言ってきていた。

 だが、本当に鏡の作った弁当を食べたがっているのだとは、想像すらしなかったのだ。

 鏡には家事を任せっきりで申し訳ないと、架は思っている。本当は鏡の負担を増やすような事はしたくないのだ。
 しかし、チョコを貰ってしまった手前、彼女たちの希望を伝えないわけにはいかない。

「食べたいってだけで、絶対にそれがいいって訳じゃないから。」

 だから、ムリならちゃんと断わればいいと、架は鏡に伝える。恨まれるのは、どうせ自分だけなのだ。

「全然、大丈夫だよ! 量が増えて、弁当箱に詰めるのがちょっと大変かもしれないけど、作る手間は2人分だろうが5人分だろうが変わんないし。」

 しかし、返ってきた鏡の返事は至極あっさりとしたものだった。

 そ、そんなものなのか…?
 料理らしい料理をしたことがない架にはよく解らないが、鏡が負担に思わないなら、それでいいのだろう。

「けどさ、そのOLさん達、面白いね。チョコのお返しが、俺なんかの弁当がいいなんてさ。」

 菅沼たちを全く知らない鏡は、肉を頬張りながら素朴な感想を述べた。
 さすがに、会社での事実をそのまま伝える気にはなれなくて、思わず架は本心を言ってしまった。

「…女の人が考える事なんて、俺には解んないよ…。」と………。



 一ヵ月後。

 見事に受験に失敗してしまった鏡は、そのストレスを料理に向けるかの如く、3人のOLのために、料理の腕を振るった。
 前の夜から準備を始めた鏡の鬼気迫る表情に、架は密かに怯えていた。しかし、キッチンで動き回っていた鏡は、そんな兄に気付きもしなかったが。

 翌日、自分が返す分のプレゼントと、鏡が用意した重箱弁当を持って、架は出勤した。
就業時間前に、架は菅沼たちに鏡の弁当を渡す。その場で弁当を広げた3人は、予想以上に豪華な弁当を目の当たりにして、3人は黄色い声を上げて喜んだのは言うまでもない。
 そして、昼休み。
 菅沼たちは鏡の弁当を一口食べた瞬間、この弁当を食べるために来年も架へのチョコレートは奮発しようと心に誓った。

もちろん、架はまだ知らない…。

●●END●●


●あとがき●

「いとこ」初の番外編が、バレンタイン企画の短編になりました。
時間設定は本編よりも半年前。
鏡は透の名前と顔は知っていても、まったく会ったことがない頃です。
透の「と」の字も出てこない話になってしまいました。
すまんな、透よ。来年は、君の話を書くからさ…
それにしても、バレンタインの本質(?)から大きく逸れた内容です。
確かにラブラブだけど、ラブラブの種類が違うよ浄岡兄弟…。

2004.2.14.下月春夏

●改訂版あとがき●
色々、足りなかった部分を足して、直したい部分を直した結果。
架はより強力なブラコンになってしまいました
こんなに弟LOVEで、彼自身の幸せはいつになったら来るのでしょうか(笑)
2004.3.13.下月春夏